人生

生い立ちから近況までを連ねるつもりです。

アンコールワットの神々しさに感動

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カンボジアへはタイのカオサンから約一日バスに乗りたどり着いた。ゲーム好きだった私は「ロマンシングサガ」シリーズの背景のクオリティにアンコールワットを連想していた。いつかこういうところへ行ってみたいという好奇心がついに形になった。シェムリアップに到着してからゲストハウスで一泊して翌日、さっそくアンコールワットへと向かった。もちろんジョイントはたんまり用意して。現地人の案内者のバイクに乗ってでこぼこ道を約1時間ほど走ったのちゲートへ着き、パスポートを見せると入場を許可された。アンコール遺跡はかなり広く本格的に観光しようなら2~3日はかかるほど。先にお土産屋でTシャツもGETしてアンコールトム、バイヨン、タ・プロム遺跡などを観光した。もうすでに鳥肌モノの感動レベルで合間にマリファナのジョイントを吸いながら最高にハイな気分になっていた。一日目夕方ごろに初のお目当てのアンコールワットにたどり着いた。壮観である。脳内でロマサガのBGMが流れてキマリすぎて目が真っ赤っかな状態で内部へと挑戦した。たしか寺院ということもあってか神聖な雰囲気はガッツリと伝わってきてて、その造形美に終始飛ばされていた。夕陽と朝陽のサンセットがバツグンと聞いた私はまず夕方から攻めた。これは正解急斜面すぎる階段を登り頂上へ。そして目の前に広がる夕陽の暖かなオレンジ色といったらもうたまげた。世界は素晴らしい、旅はするべきだと実感した。感動もひとしお陽が落ちるころ初日の探索をあとにし腹が空いていたので口コミが有名な中華料理屋で食事を済ませた。カンボジア、最高に良いところです。

翌朝早朝日の出前に再度アンコールワットへ向かい日の出を見ることにした。旅行客もちらほらいて再び頂上へ着いた。すでに太陽は登りつつありとても眩しかった。その場にいたのは自分と欧米人の二人きり。これならバレないだろとジョイントをまったりと吸っていたら匂いに気付いたのか欧米人は「俺にも一服くれよ」とサインしてきた。「オーケイ」と笑顔で返し二人でマリファナを吸いながら朝焼けを堪能した。一期一会、こういう出会いが旅の醍醐味だ。別れの挨拶を済ませ欧米人と別れるとまた会えるかなと思い返した。言葉は通じなくてもバイブスは通じ合える。そう考えればどこでだって生きていけるんだと再認識した。

お目当てのアンコールワットを満喫した私はタイへと戻り再びAと合流しダラダラと日々を過ごしていた。

約2か月の旅も思い残すことはなく、日本へ帰国した。またいつか旅をしたいと思う。そんな生き方が性に合うと思う。

帰国後はお決まりの毎日でそれから何かをしようというテンションにはならなかった。そこで退屈な時間を潰しているときに先輩のGさんから「風俗の仕事をやってみないか?」と誘われその業界へ入ることになった。勤務地は渋谷、激戦区だ。右も左もわからない私はひとまずキャストの女の子とコミュニケーションをとることに集中した。職が職だけに変わった子が多い。だが、みんなとにかく前向きで明るい。Gさんとマリファナを一服入れてから仕事をこなし、楽しく過ごしていた。Gさんとは今でも付き合いがあり尊敬する先輩の一人である。Gさんとの響いたエピソードはLSDをキメながら港区を散歩したことや、ある時駅の改札口の先でばったり出会ったときに「一服すんべ」とパイプを取り出し、人が大勢いる中で「いやぁここでは・・・」と躊躇う私たちに「いいかこの空間だけはアムステルダムだ。自由に行け」と言われ人ごみの中モクモクの煙を焚かせた。今では考えられないことだ。そんなGさんは今では都内を代表するほどの風俗業界のトップを走っていて渋谷の街を派手に光らせている。

こっからがターニングポイントで、Gさんから「お前スカウトやってみないか?」と言われてスカウトマンになったことからこの人生はさらに破天荒なこととなったのだった。

注)ここからは刺激的なエピソード ~その1~

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さきに語ったとおりマリファナを覚えてからは人生観は劇的に変化した。そこで収まればいいのだが私はそうはいかなかった。刺激を求め気が付けばシャブにも手を出すようになった。主に炙りメインで注射はさすがに怖かったのでしなかった。初めて使用したときはトイレに何時間もこもりひたすら便を出そうと必死になっていた。異常な集中力がそうしたのだろう。味も悪くなく毒っぽさもなく「ああ、こんなもんなのか」といった感じだ。感覚は鋭敏になり神経は研ぎ澄まされ万能感とともに無敵感もあり高揚感もありなんなんだこれはと正直驚いた。さらにマリファナとの相性も良く、アッパーとダウナーのダブルコンビでそのスリルを楽しんでいた。キマッテ何をするのかと言ったら一日中友達と語り合ったり、音楽を聴いたり、散歩したり、ゲームにハマったりと普通の日常と変わらなかったがそれらがめちゃくちゃ楽しくなった。

ここまで聞くとそこまで悪いイメージは意外とないと思うが、シャブが切れたら非常につらかった。思考や意欲は弱りさらに追加しないと普段のテンションに戻れなくなり、変に勘ぐったり余計な妄想に走ることもあった。だが食い続けると寝れなかったのでハシシ(マリファナの樹脂を固形化したもの)を睡眠薬代わりに使い無理やり寝ていた。そのときの間がたまらなく気持ちいい。そうして起きた後ガラスパイプにシャブを盛りターボライターでパイプを転がしながら気化した煙をくゆらせ覚醒する感覚にどっぷりハマっていた。ヤク中の完成である。

Kはマリファナオンリーで私がシャブを食ってることは言わなかった。今思えばすぐわかるだろうがうまく隠し通せていた。

ガンギマリ状態でライブするのは非常に楽しかった。DJブースの裏でマリファナを吸い目の前では観客がラップを聴いている。どれだけぶっ飛んでいるいるかが当時のステータスであってその行動はドーピングそのもので、「特別な存在」でいる状態がいかにドープな作品を作れるかに挑戦していた。読書に夢中になったのもその頃か。暴力的な出来事は一切なく平和なジャンキー生活を送っていた。

そして時は経ち22歳で海外へ一人旅することになる。まずタイを拠点に生活することになった。ぼったくりもされてこれぞ旅だという感じで、一泊150円ぐらいの宿に泊まり気ままに過ごしていた。そして一週間ほどしてからドラッグを求めラオスのバンビエンに向かった。バスで2日ぐらいかかった。山岳地帯で小さな村に最高のドラッグがあると聞きめっちゃ期待しながらバスを降りた記憶がある。バンビエンに着くと一見何もない村だったのだが、そこにいる人々はどうみても好きものの集まりでさらに期待が高まった。知り合った日本人バックパッカーのAに色々と話を聞き彼の泊っているゲストハウスでぶっといジョイントのコカインソースをごちそうになりグルグル状態になり、ここはやべえと悟った。翌日Aの宿を訪ねるとAはジョイントを巻きながら「もっとすごいのあるよ」とつぶやきそれはなにかと聞くと「アヘンだよ」とニヤッと笑った。おお、まさか世界一危険なドラッグ「ヘロイン」の精製前のアヘンを経験できるとは!すぐさまやってみます!とワクワクしながらAと共に行動した。

案内された場所は普通の雑貨店で店主のおっちゃんがこっちへ来いと私たちはある部屋へ案内され「ベッドに横になって」と言われドラえもんの腕と手みたいな長いパイプを出し持つようにと指示された。そしてパイプに火をつけゆっくり吸うようにと言われそのとおりにした。なにかまどろむような感じ。甘いガムのような味がして気が付けば大量にアヘンを摂取していた。5~10分ほど経って吸い終わると、その感想は「まさに涅槃」何とも言えない感覚に陥っていた。値段は1000円ぐらいだっただろうか。その後Aと食事をして宿に戻るとベッドが非常に心地よかった記憶がある。あとにもさきにもない気持ちよさだった。

Aと仲良くなりその後も一緒に行動するのだが、一旦タイに戻り、どうしても行きたかったカンボジアへ行くとAに伝えるとしばらく別行動することになった。

 

異端児誕生の流れ ~生い立ち編その5~

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中学を卒業後、高校にも進学せず選んだ道は働くことだった。年齢をごまかしてコンビニの夜勤や派遣会社の肉体労働や飲食店の調理場など様々なバイトを経験した。パチンコも打つようになり稼いだ収入はあっさりと消えていった。なにかが物足りないと常々悩んでいた私はラップをしてみようと思い立った。リリックを早速書いてみると意外とスムーズに書けて口に出してみると韻も踏めているではないか。そのリリックをKらに見せ「ラップやんない?」と声をかけると二つ返事で乗ってきた。希望が見えてきた。ひたすらリリックを書いて何度もラップする。その行動に情熱をもって挑んでいて輝いていた。とにかく音楽でメシが食えればと思っていた。

17歳になってDJをしていたT君の紹介で六本木のクラブでライブデビューした。右も左もわからなかったがなんとかうまくできた。ラップの練習はKの近所の小さな公園でラジカセでビートを流しそれにラップを乗せて録音して聞き返しながらスキルを磨いていった。周りの目など全く気にもしないごく当たり前の日常であった。基本Kの実家が拠点でそこで練習をしていてせまい部屋に籠って何度も何度も同じ曲を繰り返し歌い新曲のテーマについてなど語り合いながら試行錯誤しつつ高みを目指していた。音楽に関しては特に大きな出来事はなかったがそれなりに麻布、六本木、渋谷、青山、新宿、池袋など都内中心にライブ活動をしていた。グループ名は「地獄突鬼(じごくづき)」暴走族みたいな名前だ。現在は活動をしていないが、タイミングでまた動き出すかもしれない。

当時の東京は今と比べると若者がかなり自由だった。なにかと規制、犯罪とレッテルづけられ監視社会になりつつある現在と比べると防犯カメラなども少なく治安こそ悪かったがそれをかわす術は自然と身についていた。ギャング、援助交際、ギャル、ミレニアム、まさにその世代である。マリファナを覚えたのもそれぐらいの時期で、音楽に行き詰っていた自分の感性を高めたいという理由で手を出した。これがまたいい。一服すると心が朗らかになり何もかもが楽しくなって平和的に感じ、食欲は増え、悩みなども消し飛ばし不思議なセンスも高まった。鬱気質だった私にとっては最高の万能薬であった。ひたすらハッピーにひたすらポジティブに音楽を楽しめた瞬間でもあった。レコードを漁ってはボング(吸引機=パイプの一種)で一服入れて目を真っ赤にしながら音から聞こえてくる色や言葉や形を想像しながらその素晴らしさに感謝していた。

これから先の文章はぶっ飛んだ感じになるけれど、それが経験でありそれが人生である。ドラッグと出会ってからの体験とそれにまつわるエピソードを語りたい。

18~23歳の時が一番色々とヤバかった。今では思い出話になるけれど決して普通の経験はしてない特殊な生き方をしていた。世間一般的には「荒れていた」という表現がしっくりくるのだと思うけどそんなことはなかった。自由を満喫していたからだ。世の中は暗い話題ばかり、無理にでも明るく見せようとする社会にほとほと嫌気がさしていた。そのヘイトをラップした曲は自画自賛レベルなのだがあまり浸透しなかった。俗にいうオナニー作品だったのかもしれない。まあアーティストの感覚はそんなものである。共感を得るというのではなく個性を伝えたいという気持ちが強くあった。

 

 

異端児誕生の流れ ~生い立ち編その4~

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Kと仲良くなったのは小学校4年のとき、私はKのグループに入りたくてひたすら付きまとっていた。ある日どうしても仲間に入れてもらいたくてKに声をかけたところ「いいよー遊ぼう」と返事があり、気持ちはワクワクしていた。だがその日Kは他の友達と出かけてしまって遊ぶ約束をすっぽかされたのだ。考えた末出た答えは「探しに行って一緒に遊ぼう」だった。友達のおばあちゃんから居場所を聞き、電車に乗って約一時間、芝公園から東大島まで一人で探しに行ったのである。土地勘も何もない私は、「とにかくゲームがある場所にいるはず」と感じ唯一あった大型スーパーまで向かった。そのゲームコーナーまで行くと、お見事。Kが友達と遊んでいるじゃないか。すかさず声をかけ遊ぼうよと言うとKはビックリした表情で「あ、ああいいよ」と私を認めざるを得なかった。それまで幾度となくハブかれ、仲間外れにされていた自分がようやく居場所を見つけたのだ。それから本格的に仲良くなり毎日一緒に遊ぶようになった。

時は過ぎ1年後、仲間の間ではリーダー的存在だったKは最先端を走っていた。ファッション、音楽、遊び とずば抜けていた。HIPHOPやスケボーを流行らせ、私もだいぶ垢抜けたと思う。KがHIPHOPを聴くのならこちらはreggaeで対抗だと言わんばかりにお互いを磨きあっていた。B-BOY誕生の瞬間である。小学校を卒業してからもスケボーは続け、日常となっていた。タバコを覚えたのもそれぐらいの頃で2個上の先輩からマルボロ(赤マル)を吸わせてもらい最初はフカシでかっこつけていた。東京タワーの公園の隅っこで隠れながらひたすらタバコを吸っていたのを思い出す。オタク気質の友達との付き合いもあったがそのころには遊んでいなかった。彼らは勉強もできて私の生活とのギャップについていけなかった。それでもアニメやゲームを忘れずに今までこれたのはありがたいことだ。かなりのゲーマーであった自分は攻略法や裏技を率先して伝えたものだ。6年生になるころにはちょいちょいアキバに遊びに行くようにもなった。当時のアキバはバスケとスケボーができる公園がありそこに悪ガキたちは集結していた。ひとつ向こうの通りはカオスなオタク街で胡散臭い連中もたくさんいた。あの有名なオウム真理教が運営してたPCパーツ屋「マハポーシャ」もそのころ全盛期であった。そしてすぐサリン事件が起こりそれと同時に世の中が少しづつ変わっていったのを覚えている。

私たちは何が今一番熱いのかつねに探し回っていた。人とは違うなにか。それを個性と信じていた。勉強も何もせず好きなことだけをしていて、親からは怒られるがそのうち何も言われなくなった。

そして気が付けば6年生となり小学校を卒業し、私は板橋へ引っ越すことになった。新天地で中学時代を過ごしたけど割とすんなり生活できるようになり、色んな中学のヤンキーたちと仲良くなった。港区へもたまに通い酒とカラオケと女とオール(徹夜して遊ぶ)を覚え、遊び人の道へと覚醒していった。ちなみに初のクラブデビューは6年生のころで、友達と2人でカルアミルクをちびちび飲んでその場の空気を感じ取っていた。周りの黒人や大人たちは気にもせず受け入れてくれて今ではありえない環境でもあった。まさかラップをやることになるとは、必然でもあり偶然でもある。

中学に入ってからはすぐに仲間ができてやんちゃする奴らともすぐ出会い楽しく過ごせていたと思う。合唱コンクール3年連続で最優秀指揮者賞も貰った。勉強は国語だけは自然と出来たが他はてんでダメで通知表も中学3年間でオール1を何度もたたき出していた。この時点で落第者となっていたが、卒業するころにはラップに興味を持ち始めた。

異端児誕生の流れ ~生い立ち編その3~

始まりは東京タワーの2階のゲームコーナー。アーケード、メダルゲームと基本は揃っていてよく母からお小遣いをもらってはそこに入り浸っていた。他にも三田慶応中通りのほうに行けば2~3軒50円ゲーセンがあり、そこには不良がたまっていて小学校低学年の私たち(兄は1個上)には敷居が高かった。「スト2」「ファイナルファイト」「テトリス」などにハマり、ファミコンしか知らなかった私はそのクオリティに衝撃を受けた。特にメダルゲームは低額で時間も潰せてかなり重宝していた。ビデオポーカーやブラックジャックなどをプレイしていた。家族で地方へ旅行に行ったときに義父がよく夜にそれらのカードゲームをしていたのでルールは知っていた。そのときのやりとりに胸が熱くなり、ばくち打ちとして目覚めたのかもしれない。その証拠に小学校の卒業文集のなりたい職業は「ギャンブラー」と書いていた。FF6のセッツァーに憧れていたというのもあるが。

話は脱線してしまったが、とにかく毎日ゲーセンへ通って家に帰ってはファミコン漬けの日々だった。勉強などするタイミングもない。両親もそこのところは寛大で自由に私たちを育ててくれていた。

よく金がないときはメダルコーナーに入り浸り、観光客やカップル、暇を持て余したおっちゃんたちからメダルをわけてもらっていた。まんまスラムの物乞いである。東京タワーという場所が場所だけに蝋人形館やお菓子を分けてもらえる定期イベントなどもあり子供たちにとっては癒しのオアシスだった。蝋人形館は基本的にホラー要素が強くさらにリアルだったので、肝試し代わりによく侵入してタダで堪能していた。自分らは小学校2~3年ですでに悪ガキと化していた。

そのほかの遊びといえば、ガン消しやカードダス、駄菓子屋などにも夢中になった。お金持ちの子供は1枚20円のカードダスを500枚のワンケースで買っていたりもしてめっちゃうらやましかった記憶もある。大人買いというやつだ。そうそう、ビックリマンシールもあったあった。今でも大切に保管してれば多少の値が付くレアものもあっただろう。

そのころから1個上の先輩たちとつるむようになりよく一緒にやんちゃしていた。ピンポンダッシュや秘密基地探しやいたずら電話、万引きのやり方を教わり、じわじわと私のカオス具合はあがっていった。

小学校4年あたりに無二の親友Kと出会うことになる。比較的自分らのタメ(同い年)は仲はいいほうなのだがこの年齢になるとなかなか連絡も取らないし会わない。そんな中で唯一今でも連絡を取り合い酒を飲みに行くのがKだ。仲良くなったエピソードは次回話すとしよう。なにはともあれ人に恵まれているのが自分だ。それだけは自信がある。青春時代共に築きあった友が今の自分を支えてくれているのは確かであってそこが覆ることはまずない。なにが言いたいのかというと、「友達」がいたほうが楽できるってこと。もちろんイジメにあった時期もあったが別に語るほどのことでもないし、ささいな出来事だったのかもしれないが、「自殺」につなげるレベルのいじめは憤りを感じる。

異端児誕生の流れ ~生い立ち編その2~

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そして4歳ぐらいのころ東京都港区に引っ越し、小学校卒業までの生活を過ごすことになった。新しい家は芝公園の近くにあったとあるマンションでそこで物心がついたときには義父もいて、様々な経験をした。まず、そのマンションは確実に幽霊が出るだろうと言わんばかりの雰囲気を醸し出しており、兄はそこで鬼を見たと言い、自分は呑気なものでそこまで怖くなかったのだが、兄が今でもはっきりとリビングで赤鬼と青鬼が座っていたと真顔で言うものだから嘘をついてるとは思わなかった。オカルトや霊感などの類は兄には全くなく、私は不思議と直感でそれらを無意識で感じ取っていた。とにかく重苦しい雰囲気のマンションでエントランスは常に薄暗く、ゴキブリは大量に出るわ側の川はどぶで濁っていて異臭を放っているわ、風水的にも確実に良くない物件だったと今は思う。それでも楽しかった思い出がたくさんあった家でもあり、今の自身のベースを築いたのもそこからという実感はある。ある時は、家族全員が謎の発疹に罹り病院でも原因不明だと言われたこともあった。おそらく霊障だろう。しかもそこの管理人の爺さんと仲良くしていたのだがその爺さんは泥棒だったのも衝撃だった。(合鍵を使って家に潜入して、学校帰りドアを開けたら管理人が出てきた。)義父が大切にしていたロレックスや高級品など盗まれ放題でそれでもなぜか母は「どこかに忘れたのだろう」と気にもしていなかった。犯人は管理人だと私と兄は母に訴えたが、結局その後もその件には触れなかった。

そのマンションの信号の向かいのビルに同じ幼稚園に通っていた幼馴染の女の子が住んでいて、高学年になるまでは毎日その子と楽しい日々を過ごしていた。チビだけどすごく気の強い女の子で、よく二人でファミコンをしたり、近所の公園でおままごとや鬼ごっこをして遊んでいたんだ。その子とは家族ぐるみでも付き合いがあり誕生日会なども親が手伝いに来たり、どこかへ出かけたりもした。今ではまったく付き合いはないけど、淡い思い出であることは確かだ。

とにかく素直で明るく健やかに育っていた私は無事幼稚園を卒業して、小学校に入学して4年生あたりから悪いことを覚えるようになった。きっかけはとくにない。自然と万引きをするようになり、ケンカや親への反抗もするようになっていた。両親は夜は仕事のため不在だったのでその寂しさからそうなったのかもしれない。それと、当時ゲーセンが全盛期だったのでそこへ兄と入り浸り、暇を持て余していた。兄も悪ガキになりかけたが、当時付き合っていた(私は今でも付き合いのある)友達のお母さんにあることでこっぴどく叱られてからまっとうな道を歩む道を選んだ。そんな兄との共通点は「ゲーム」であった。

異端児誕生の流れ ~生い立ち編その1~

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1983年12月22日 私は誕生した。冬至の真っ只中おんぎゃーと大きな叫び声をあげて元気に生まれた。場所は新宿のとある病院。当時ホステスだった母は20代という若さですでに兄を産んでおり、さらに自分まで産んでもらえたのでその喜びは今でも覚えている。生まれた場所が場所だけに現在38年不思議な人生を送っている。それについてはしばらくあとの話。

ここで覚えているのは2~3歳ごろからの記憶で、母の同僚のホステスさんがお守りをしてくれていたこと、とんでもなくやんちゃな性格だった私は手が付けられないほど次から次へと無茶なことをする。(おかしな行動)とも言えるのか。

当時を思い出すとかなりぶっ飛んだ子供だとつくづく思う。兄は真面目なのだが自分は相当狂ってた。まず、朝起きる日中は母は寝ていたため、一人で何をしたらいいのかわからず、早朝4~5時ぐらいの時間にひたすら砂嵐が流れているテレビ画面を見て今で思うトリップをしていて、まじまじと砂嵐の画面とザーっという音とともに何故だかワクワクしていた。そこから一人遊びをすることが得意になったのかもしれない。兄は幼稚園?に通っていたため夕方までいつも一人で何かをしていた。鏡を見ては自身に「君は誰?」と聞くと「あれ?誰だろう」という状態になり、しばらく経つと「あ、○○だ」と自分を思い出すという謎の遊びもよくしていた。

兄にはほんとに助けられたことがあって、まだ幼児なのに一人でしょっちゅう外へ出歩く自分がある日マンホールに落ちてそれを偶然兄が探し当ててくれたこともあり、そのときの嬉しさは今でも鮮明に覚えている。また、マンションのエレベーターに手が挟まり私は泣き叫びながら助けて!助けて!という事態があり母もパニック状態になってしまったときに兄は、冷静に扉を開けるボタンを押して救われたこともあった。

そんな兄もストレスが溜まっていたのか、せっかく買ってくれたたくさんのおもちゃをベランダから投げて遊ぶことを覚えてしまい、超合金ロボがひゅーと落ちてガシャンと壊れるまでの過程を楽しんでいた。きっかけを作ったのはもちろん私だが。

夜の水商売の仕事をしていた母は女手一つで男2人を育てていたのは本当にすごくて、当時の人たちはなんか人情味がありそれも支えになってたからこそそれができてたのかもしれない。3歳の自分がタクシーに一人で乗り新宿センタービルのヒーローショーを見に行き行き帰りの料金もタダにしてくれたこともあって、そのとき将来はタクシーの運転手になりたいと幼心に思っていた。現在はしがないギャンブラーだが。あと、ベッドから転げ落ちて大腿骨を骨折したときに、大泣きしながら病院に着いたときめちゃくちゃ混んでいて、先に待っていたヤクザが「おう!ガキがピーピー泣いとるんじゃ!!先に見てやらんかい!!!」と新宿らしいエピソードもあり、そのおかげで真っ先に診察してくれたのも鮮明に覚えている。