人生

生い立ちから近況までを連ねるつもりです。

異端児誕生の流れ ~生い立ち編その3~

始まりは東京タワーの2階のゲームコーナー。アーケード、メダルゲームと基本は揃っていてよく母からお小遣いをもらってはそこに入り浸っていた。他にも三田慶応中通りのほうに行けば2~3軒50円ゲーセンがあり、そこには不良がたまっていて小学校低学年の私たち(兄は1個上)には敷居が高かった。「スト2」「ファイナルファイト」「テトリス」などにハマり、ファミコンしか知らなかった私はそのクオリティに衝撃を受けた。特にメダルゲームは低額で時間も潰せてかなり重宝していた。ビデオポーカーやブラックジャックなどをプレイしていた。家族で地方へ旅行に行ったときに義父がよく夜にそれらのカードゲームをしていたのでルールは知っていた。そのときのやりとりに胸が熱くなり、ばくち打ちとして目覚めたのかもしれない。その証拠に小学校の卒業文集のなりたい職業は「ギャンブラー」と書いていた。FF6のセッツァーに憧れていたというのもあるが。

話は脱線してしまったが、とにかく毎日ゲーセンへ通って家に帰ってはファミコン漬けの日々だった。勉強などするタイミングもない。両親もそこのところは寛大で自由に私たちを育ててくれていた。

よく金がないときはメダルコーナーに入り浸り、観光客やカップル、暇を持て余したおっちゃんたちからメダルをわけてもらっていた。まんまスラムの物乞いである。東京タワーという場所が場所だけに蝋人形館やお菓子を分けてもらえる定期イベントなどもあり子供たちにとっては癒しのオアシスだった。蝋人形館は基本的にホラー要素が強くさらにリアルだったので、肝試し代わりによく侵入してタダで堪能していた。自分らは小学校2~3年ですでに悪ガキと化していた。

そのほかの遊びといえば、ガン消しやカードダス、駄菓子屋などにも夢中になった。お金持ちの子供は1枚20円のカードダスを500枚のワンケースで買っていたりもしてめっちゃうらやましかった記憶もある。大人買いというやつだ。そうそう、ビックリマンシールもあったあった。今でも大切に保管してれば多少の値が付くレアものもあっただろう。

そのころから1個上の先輩たちとつるむようになりよく一緒にやんちゃしていた。ピンポンダッシュや秘密基地探しやいたずら電話、万引きのやり方を教わり、じわじわと私のカオス具合はあがっていった。

小学校4年あたりに無二の親友Kと出会うことになる。比較的自分らのタメ(同い年)は仲はいいほうなのだがこの年齢になるとなかなか連絡も取らないし会わない。そんな中で唯一今でも連絡を取り合い酒を飲みに行くのがKだ。仲良くなったエピソードは次回話すとしよう。なにはともあれ人に恵まれているのが自分だ。それだけは自信がある。青春時代共に築きあった友が今の自分を支えてくれているのは確かであってそこが覆ることはまずない。なにが言いたいのかというと、「友達」がいたほうが楽できるってこと。もちろんイジメにあった時期もあったが別に語るほどのことでもないし、ささいな出来事だったのかもしれないが、「自殺」につなげるレベルのいじめは憤りを感じる。